絵地図作家・村松 昭さんの新作「博多湾周遊絵巻」「大宰府・天満宮散策絵図」完成!

絵地図の製作ドキュメント

 博多湾の絵地図製作交渉から一年半、絵地図作家・村松昭の手による絵地図「博多湾周遊絵巻」と「遠の朝廷 大宰府・天満宮散策絵図」が2005年夏から秋に完成した。取材開始は2004年10月。約10ヶ月間のべ40日にのぼる踏査取材・スケッチの大半に同行。当初のラフ構想画から、取材をもとに幾度となく描き直される下書き、原画製作から印刷物として仕上がる過程を、依頼者及びプロデューサーという立場で間近に体験することができた。このページでは、その過程を簡単に紹介する。
 2006年1月現在、福岡市は2016年のオリンピック国内候補地に立候補するため、磯崎新氏を総合プロデューサーに据えての事前準備を急ピッチで進めているが、完成した「博多湾周遊絵巻」は、この地の魅力が一体的に判るばかりか、すでに国際標準のエコ地図システム「グリーンマップ」に参加している台湾やインドネシア、インドの面々にも好評いただいている。特に中国や台湾など漢字が通用する所では好評だ。
 博多湾は日本の神話の故郷とも言われ、例えば「君が代」の歌詞とほぼ同じ内容が全国海神の総本宮・志賀海神社では祝詞として古来から使われている。しかも、歌詞に登場する「千代」「さざれ岩」などの言葉は地名や神社名として博多湾周辺に現存。三韓遠征などで知られる伝説の女帝・神功皇后にまつわる名所や逸話は数知れず点在するのだ。西区小戸の「小戸大神宮」は、筑紫の日向の小戸のアワギ原の原型とも言われる古い神宮。もちろん筑紫は博多かた筑紫平野一帯を指し(古来は九州全域も筑紫と呼んだ)、小戸を見下ろす高台の峠は「日向峠」という。最古の稲作跡「板付遺跡」をはじめ、奴国、伊都国など邪馬台国時代の史蹟名所も多い。
 西の朝廷・太宰府政庁が置かれた史実を語るまでもなく、大陸に最も近く古来から開けた博多津(那の津)が文化伝来地として栄えたのは事実なのだ。茶・饅頭・饂飩・蕎麦など博多伝来の食文化も多い。そんな博多湾の現在の絵図をどうしても創って残したかったのだ。

↑博多湾周遊絵巻の下書き ↑左と同じ部分の完成図

●テーマ決めと構図の苦心
 交渉当初、村松氏は2つの絵地図製作依頼に反応が薄かった。九州は屋久島と大淀川(宮崎)を描かれていたが、福岡を訪れたこともなく「博多湾」と言われてもピンと来なかったようだ。古来から中国大陸や朝鮮半島との交流窓口として栄え、歴史の表舞台に幾度となく登場する土地ではあるが、博多湾全体を紹介したパンフレットやガイドブックの類はなく、ひとつの作品としてまとめることができるかの判断材料が皆無だったのだ。
 絵地図づくりは、参考となる資料や文献、施設や地域ごとに散らばっている資料類を集め、氏のアトリエに送ることから始まった。氏の動きは早く、5万分の1地形図をもとに2種類の構図ラフ画がすぐに届いた。 ひとつは、いわゆるポスター型の従来よくある鳥瞰図タイプ。もうひとつは村松氏が創りだした、長さ3mにも及ぶ蛇腹折り横長タイプだった。横長タイプには折り目が添えられ、指示通りに折ると鶴が羽を広げたような博多湾(別名舞鶴湾ともいう)の形になった。
 双方の案に利点と欠点があった。鳥瞰図タイプは、湾全体が見渡せるため、作品としてのまとまりが良く、アートとして飾る場合や販売を考えればこちらが最良だった。しかし、定型サイズに納めるために、描き込むそれぞれの目標物が小さくなってしまい、散策イメージのわくような地図にはほど遠くなってしまう。その逆に、蛇腹折りタイプは博多湾の沿岸風景を細かく描き込むことができ、必要なページを開くことができるので地形図などと組み合わせれば、携帯しやすくガイドブックとしての活用も可能となるが、飾るには不向きだった。

↑取材時に「君が代」の故郷が博多湾という有力説を知る ↑志賀島資料館や志賀海神社に残る資料をもとに諸説発表されている。

 どちらか悩んだ私は、自身が主催している「虫めがね探検隊」と称するいくつかの地図ワークショップの中で、参加者約600名にアンケートをとった。参加者が子ども中心だったこともあってか、結果は蛇腹折りタイプが8割と圧倒的に勝利。村松氏に依頼した理由が「子ども達にも親しんでもらえる郷土の絵地図」だったこともあり、村松氏も勧めた蛇腹折り案での製作となった。
 余談だが、子ども向けワークショップ「虫めがね探検隊」は、子ども達に地図そのものの楽しみを知ってほしいとボランティアで行っている活動。村松氏の絵地図は鳥や動物、魚や花が描き込まれ、見た目にも楽しいのでよく使わせてもらう。虫めがね片手に、最初は「ホタルはどの辺にいる?」「カブトムシの森はどこ?」など簡単な質問をする。子ども達は馴れてくると、地図から情報を知ることができるようになり、「イノシシは山の方だな」とか「ワシは山の頂上付近を飛ぶ」とか考えながら探しだす。
 さらに絵地図を2万5千分の1地形図に変えて「博多湾の中に宝島があります」などと質問すると、床一面に張り合わせて広げた地形図の中から、早い子どもは1秒。遅い子どもでも20秒かからずに探せるようになる。
 対象年齢は5歳から12歳だが、漢字が読めない子どもでも字を絵のように認識して探す。地図が苦手という人の大半は、いきなり情報量の多い地形図などから入ったために、拒否反応を示した人が多い。絵地図など判りやすく編集された地図から入れば、地図を見る楽しさも自然に体感でき、最初は「地図は嫌い」とイヤイヤ参加した子どもが、最後は熱中して虫めがねを手から放さない光景はよく目にする。それ故に、どうしても村松氏に郷土の誇りとなるような絵地図を描いてほしかったのだ。

↑海の中道にある野鳥観察池にて ↑海の中道・シオヤ鼻展望台にて

●取材のコンセプト
 博多湾沿岸を取材する際、村松氏が定めたコンセプトのひとつが「古代史」。稲作伝来地として知られる板付遺跡をはじめ、縄文・弥生時代の国指定史蹟が数多い。また、紀元3世紀〜6世紀の古墳も点在し、全長70m級の前方後円墳だけで10カ所以上ある。出土品も多彩で国内最大の銅鏡をはじめ、大陸文化の伝来地を証明する国宝「金印」など、挙げればキリがない。取材地の約3分の1は、これら古代史を彩る史蹟・旧蹟に費やした。
 また博多湾沿岸には著名な神社・仏閣も多く、全国海神の総本宮である志賀海神社をはじめ、住吉神社(住吉宮の総本宮)、勅使を迎える仲哀天皇ゆかりの香椎宮、三大八幡のひとつ筥崎宮などが点在する。その社歴はいずれも古く、創建や祀られている祭神は、三韓遠征を行った神功皇后の伝説に基づくものだ。
 博多湾周辺の旧蹟には、特に神功皇后に関するものと、豊臣秀吉にまつわるものが多いのも特長のひとつだ。
 そして、もうひとつ博多湾の重要な歴史上の出来事といえば「元寇」。文永・弘安と二度にわたる元軍の襲来にまつわる史蹟や伝説も多く、湾内全域に点在する「元寇防塁」や関連史蹟をひとつづつ取材していった。
 これに加えて、もうひとつのコンセプトである「自然」では、巨樹・巨木を中心に、クスや椿などの原生林や散策路、ハマボウなど湾岸の群生地、桜や紅葉の名所、名水や滝、温泉などを取材していった。

↑太宰府の絵地図は、監修の森先生に何度もチェックを受ける。 ↑雨の中、森先生の案内で太宰府天満宮界隈を歩く

●踏査取材の出逢いと楽しみ
 取材中、様々な方に出逢ったり協力していただいた。まず無償で船を出していただいた福岡市漁協能古支所長の石橋貢治氏。大シケの日にも関わらず、湾内を細かく解説していただき、同時に博多湾の抱えている環境問題から湾内で獲れる魚介類まで、幾度となく説明、校正をお願いした。
 取材中に石橋氏から聞いた赤潮被害や海が酸欠状態だという問題は、我々の絵地図取材に同行していたNHK福岡放送局のディレクターの手で何度もニュース放送され、最終的に国際海洋シンポジウム「海からはじまる国づくり〜一人ひとりが創る持続社会」(2005年10月15日、NPO法人フューチャー500日本主催、福岡市・西日本新聞社など後援)と題し、博多湾や日本海、土佐湾、有明海などの事例をもとに環境と経済の融合を語る催しへと発展していった。
 また、立花山や油山などの取材の折には、常連登山者やボランティアガイドに様々なアドバイスをいただき、古墳の発掘現場では学芸員や発掘担当者に丁寧に教えていただいた。
 野鳥の描き込みについても、日本野鳥の会福岡支部がまとめた詳細な野鳥観察情報に基づいて記載していくなど、多くの方の協力のもと、絵地図は完成に近づいていった。

↑曲水の宴が開かれる梅庭の前で。手前は、「地図の達人」にも登場いただいた竜田清子さん。惜しくも2005年11月他界された。絵地図の完成と、その後の「おとなの遠足」を楽しみにされていた。ご冥福をお祈りします。 ↑古都・太宰府には、静かにくつろげる名所旧蹟がたくさん。天満宮や国立博物館だけでなく、ゆっくりと古都を楽しめるよう一泊等で来てほしい地だ。

●仕上げと最終チェック
 取材は秋から冬を中心に敢行。秋のうちに唯一現地取材できなかった、博多湾の入口に浮かぶ玄界島は、春になってから取材の締めで訪れようということになったが、これが福岡県西方沖地震が2005年3月20日に発生し、今回の取材で唯一現地へ行けなかっ地となった。
 玄界島は今回の地震で一番被害が大きく、地震前とは大きく景観が変化している。私と村松氏は3月22日に島を訪れる予定だったから、地震の発生が2日ズレていれば現地で被災していた可能性もあった訳だ。何度も船から取材していたので絵地図製作には支障は出なかったが、被災していたかもしれないという恐怖よりも、唯一足を踏み入れていないことに対する残念さの方が残った。
 地震の1ヶ月後、追加の取材を数カ所行い、水彩画原画は2005年5月に完成。その後、文字のチェックやコラムの執筆を私が担当し、印刷、仕上げへと進めていった。

↑現地を取材して初めて判ることも多い。また資料だけだと道が変わったり建物そのものが移転、解体されていることも。現地踏査取材の大切さを改めて知らされた。 ↑森先生に「藍染川」の碑の説明を聞く。

●太宰府の取材も佳境に
 博多湾と平行して、太宰府の取材も2004年秋に開始。発行時期を8月に設定していた博多湾を先に進め、9月末発行の太宰府の本格取材は2005年2月だった。
 作品名「遠の朝廷〜大宰府・天満宮散策絵図」には解説が必要だ。絵地図の全面監修を、「大宰府研究」の第一人者である森弘子先生に依頼。古都である室町時代以前の歴史上の「大宰府」には点がなく、現在の地名「太宰府」には点があることを踏まえて名付けた。
 太宰府の取材は主に自転車を活用。西鉄太宰府駅前の観光案内所で貸し自転車を借りて、古都の風情を楽しみながらの取材となった。
 三方を山に囲まれた太宰府は、構図の段階で霊峰・宝満山を上にして描くことがすぐに決まった。絵地図の良いところは、北を必ず上に配する必要はなく、実際の景観イメージに近い形に自由に配置・デフォルメできることである。描くエリアが比較的狭いことも手伝い、取材も効率的に進み、また細部まで描き込むことができた。
 取材先の多くは、監修の森先生の解説や著書を参考にした。実際に主な名所旧蹟は森先生に案内いただき、開館前の九州国立博物館の取材も行った。

↑村松さんは取材をすると必ず現地で手みやげになる貝殻や石を探す。こうすることで確かな記憶として絵地図づくりに反映されるのだ。 ↑悪天候も気にせず、雨の日も各地を取材して廻った。

 太宰府の取材のうち、山間部の取材は2005年7月、盛夏の中で敢行。いずれも500〜800m級の低い山だが、大野城や四王寺山は実際に歩くとなると大変だった。2年前の豪雨で自然歩道の多くは土砂くずれ等で再開しておらず、道が変わっているため案内板や地形図が役に立たない。手探りの状態で汗だくになりながら目的地をひとつひとつ探し、確認していった。
 太宰府の最後の取材は宝満山。地元では手軽な登山を楽しめる山として知られ、子ども達もよく登る山である。標高は800m余りと高くないのだが、登山口から山頂までの大半が石段になっている。本道を登った後、下りはあまり人が行かない羅漢巡りを選んだのだが、垂直な崖の連続で修行の山だということに納得した。ここは原生林や奇岩奇勝が続き、崖から落ちかけたり、転んだりと命がけの踏査だったが、二人で「取材して良かった」と納得できる身近な秘境だった。
 8月に入り氏は太宰府の原画を急ピッチで仕上げられ、文字入力後の校正も森先生の的確な指導でスムーズに進行。予定通り9月末に完成しお披露目された。
 百年ぶりにできた新しい国立博物館、九州国立博物館開館で盛り上がる古都・太宰府と博多を訪れる際は、ぜひ2つの絵地図を手にとってほしい。きっと満足のいく旅をサポートしてくれるはずだ。

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