■地禄神社と地禄の丘 |
地禄神社は、貝原益軒の筑前国続風土記(宝永六年・1709年)にも地禄天満宮として記述があり、三百年以上の歴史をもつ古い神社である。鎮座地は博多区堅粕四丁目(旧西堅粕)で、御祭神は埴安彦命と埴安姫命の二神(農業の神様)。分神が上牟田二丁目(旧西堅粕八丁目)にある。
菅原道真公が太宰府へ赴任する際に、当時は小高い丘だったこの地に登り、太宰府を遠望されたといい、後に天満宮を建立した。
地禄の丘は昔、洪水などの際に東区馬出あたりの人も牛馬を連れて避難場所にしていたという。今は平らというより低地になっている地禄神社周辺だが、いつ頃から今のようになったのか。一説には、当時は堅粕付近まで海が迫り、海岸端だったことから地禄の土を使って埋め立てて道を造り、家を建てたのだという。国道3号線が完成する前は、この地禄神社の横に道があり、これが太宰府へ行く堅粕街道だった。
昭和30年から、夏祭りの際に子ども神輿(みこし)を始め、その際に危険という理由で姪浜石で造られた旧石鳥居を撤去した。 |
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■堅粕の生い立ち |
堅粕という地名の由来にはいくつかの説があるが、貝原益軒の「筑前国続風土記」にある「潟洲」という地名から変化したという説が有力である。潟洲とは、海辺の低地で頻繁に大水が発生し水没する土地の事。その名の通り、近年も幾度となく水害に見舞われた。「筑前国続風土記」には、大きな村であるという記述があり、昔から栄えていたことが判る。同記には、東光院に湧いていたという温泉「薬師の湯」も記述されている。 |
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■堅粕橋 |
今から五百五十年前には、御笠川は堅粕橋の付近から曲折して、住吉を通り冷泉津(今の春住橋付近)へ流れていた。豊後の大友宗麟が博多を管領した際に、承天寺界隈にあったという小高い丘陵地を利用して流れを変え、石堂川とした。その際に、博多東部の入口にあたる堅粕付近に深い濠を堀り砦を築いたため、橋を造る必要が生じて堅粕橋を架けたのが橋の由来である。対岸の辻堂町(現在の博多駅一丁目)は太宰府往還の馬継所として、また荷駄賃所として発展したため、堅粕も賑わいをみせるようになる。
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■馬番所 |
現在の東光一丁目から東比恵一丁目にかけての御笠川沿いは、藩政時代は馬番所があり、太宰府往還から博多入りする人々を取り締まる要所であった。ここで身の回りのチェックを受けた後、堅粕橋を渡って博多入りした。
当時一帯は博多外地の寂しい場所。約七百年前の南北朝時代、南朝方だった肥後の武将・菊池武時が手勢三百余騎を率いて九州探題(櫛田神社付近にあったとされる)の北条英時を攻略する際も太宰府往還を経て進軍し、このあたりを通っている。武時の探題攻めは、少弐・大友軍の裏切りによって武時以下全軍が櫛田神社付近で戦死。その首級二百余は、堅粕付近の比恵河原にさらされたという。
この言い伝えに加え、藩政時代は柳町下(現・大浜地区)の刑場で打ち首になった罪人の首が、比恵の河原でその都度さらしものにされていたことから、気味の悪い場所でもあった。 |
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■校区にあった銭湯六つ |
今では一件も残っていないが、昭和30年代には校区内に銭湯が5〜6件あった。堅粕四丁目の花見湯、東光二丁目の白鷺湯など、いずれも昭和40年代後半から50年代にかけて廃業していったという。また、駄菓子屋や貸し本屋なども数件あり、昭和の下町風情が残った時代だった。
平成も18年になり、昭和時代の街角風景も次々になくなっている。昭和30年代の小学校の児童数は900人以上。現在は260人ほどだから、駄菓子屋や子ども相手の文具屋も次々に姿を消している。 |
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■東光昔話と商業池 |
昭和30年代、まだ百年橋通りや空港通りがなかった頃は、一面に田んぼや畑が広がっていた。福商(現在は東福岡高校)正門前の用水路も水がキレイで、ここでザリガニとりをした想い出のある大人も多い。津屋公園は以前は沼で、福岡商業のそばにあったことから商業池と呼ばれていたが、その後埋め立てられて公園となった。 |
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