わたしたちのまち「東光」は、博多駅と福岡空港に挟まれた交通の要所です。校区の歴史や魅力を8つのグループで探しました。

東光小学校創立50周年に際して、校区の昔話や写真、古地図などの資料を集めました。博多駅と福岡空港に挟まれ、また国道3号線や福岡都市高速(3つのランプ=出入り口に囲まれている)、福岡市営地下鉄「東比恵」駅があるなど、現在では交通の要所として反映している町です。資料を集め、調べるうちに藩政時代からこの地は交通の要所だったことも判りました。

■軍需工場から自動車の町へ
 東光校区は戦前、堅粕工業地帯と地元で呼ばれるほど鉄工所や関連工場が多かった。今でも鉄工所などは校区に数多く残っているのが名残である。戦時中いったん軍需工場地帯となるが、昭和30年代になると自動車会社が次々に進出し、県下一の自動車販売会社の町となる。
 昭和30年頃すでに国道3号線は広い道路となっていたが、車はほとんど走っておらず、たまに走るのは進駐軍の車だった。
 その後、高度成長期には運送会社なども次々に交通の便の良い東光校区に事務所を構え、福岡の物流拠点のひとつとして発展していく。昭和の終わりに都市高速道路が開通し、平成に入ると地下鉄が福岡空港まで延長され東比恵駅が開設。その昔、馬番所がおかれた東光校区は今も交通や物流の要所である。

■町名改正前の地名
 昭和37年5月公布の「住宅表示に関する法律」により、福岡市も昭和41年までに、それまであった多くの由緒ある町名を整理統合した。東光校区でも多くの町名が姿を消し、現在は「堅粕」「東光」「東比恵」「上牟田」の4つの町名のみである。町名改正前、昭和三十六年の地図を見ると、無くなった町名が記載されている。堅粕四丁目は「西堅粕町(四〜六丁目)、東光一丁目は「白鷺町」、東比恵は「比恵新町」「栗原町」、上牟田三丁目は「八田町」とある。
 さらに昭和三十六年の「福岡地典(第二十二版・住宅案内地図)では、現在の国道3号線沿線、タキイ種苗などの付近は「屋敷町」、東光会館のある付近は「池田町」、東比恵二丁目NTT社宅付近は「栗原町」、東光公園付近は「松本町」、東光小学校のある界隈は「若菜町」、現在の百年橋通り付近は「平田町」という具合にさらに細かく記載されている。
 地名の由来は今となっては判らないものも多いが、旧町名そのものは何らかの形で残っていることもある。例えば「出来町公園」「花の町公園」「人参公園」など公園名として残る場合や、「東中洲」などバス停・交差点名などで残る場合である。

■福岡空港と進駐軍
 東光校区のすぐそばにある福岡空港は以前は板付基地と呼ばれる米軍基地があった。さらに遡ると、昭和19年1月までは福岡平野一番の穀倉地帯で、お米は反あたり七俵の収穫をあげ、菜種の生産では県下一を誇る豊かな土地だった。 これが一変したのが戦時下の昭和19年2月25日。西部軍事司令部から届いた一通の呼び出し葉書には「この葉書と印鑑を持って、忘れずに2月25日午前9時までに福岡商業(現在は東福岡高校)に出頭せよ」とだけ書かれていたが、呼び出しを受けた該当地区の住民たちは、否応なしに新飛行場建設のための接収同意書にその場で押印させられ、126戸500人の人々はたった10日で強制立ち退きさせられた。
 戦時下の当時、男手の多くは兵隊にとられ、わずか10日で転居先もないまま追い出されたのだ。飛行場建設工事は、市内の全ての中学校・高等学校・大学から学徒を集めて行われ、翌昭和20年5月に滑走路一本が完成した。
 その後まもなく終戦となり、その後は米軍が入り、板付基地として昭和47年3月31日に日本に返還されるまでの長い間、板付基地はもっとも身近な「外国」となった。
 当時は空港・基地内を覗いたり、写真撮影やスケッチはスパイ行為とされた。東平尾公園から撮影やスケッチをしても捕まえられた。当時の東光の子ども達は、基地の入口付近まで行動範囲で、兵士に見つかりよく怒られたという。

■紙芝居と火の見櫓
 都市高速道路ができるずっと以前、国道3号線堅粕交差点近くに、火の見櫓があった。昭和20〜30年代前半、この火の見櫓の所に紙芝居屋がよく来た。千代町のコバタさんといい、子ども達は5円でこんぶや飴を買って皆で紙芝居を楽しんだという。

■芸どころ東光
 昭和54年、当時の堅粕東光公民館館長・副田久氏が発行していた「かたかす歴史散歩」によれば、「堅粕東光地区は芸人の多い町である」と書かれている。地禄神社の夏祭りに「博多にわか師」生田徳兵衛(女優・生田悦子の父)の生田組をよく招いていたといい、その一座に女形専門の高見義夫氏(堅粕四丁目)がいた。地元からも一緒に舞台へ上がる強者が大勢いて、毎回賑わったとある。東光地区には芸を楽しむ風土が昔からあったのだ。
 博多にわかがまだ盛んな昭和30年代、山王日吉神社は「演芸の神」として敬われ、比恵にはかぼちゃ組があり、上牟田には「上牟田劇団」があった。この上牟田劇団には元松竹歌劇のスターだった「吉子」さんをはじめ芸達者な面々が揃い、当時の市民会館で行われた芸能大会でも一番人気を博したとのこと。
 当時から婦人会をはじめ地域の各団体が芸を競い、公民館の文化祭や敬老慰問会、博多どんたくなどに積極的に参加する伝統が今も続いている。芸どころ東光の面目躍進である。
■地禄神社と地禄の丘
 地禄神社は、貝原益軒の筑前国続風土記(宝永六年・1709年)にも地禄天満宮として記述があり、三百年以上の歴史をもつ古い神社である。鎮座地は博多区堅粕四丁目(旧西堅粕)で、御祭神は埴安彦命と埴安姫命の二神(農業の神様)。分神が上牟田二丁目(旧西堅粕八丁目)にある。
 菅原道真公が太宰府へ赴任する際に、当時は小高い丘だったこの地に登り、太宰府を遠望されたといい、後に天満宮を建立した。
 地禄の丘は昔、洪水などの際に東区馬出あたりの人も牛馬を連れて避難場所にしていたという。今は平らというより低地になっている地禄神社周辺だが、いつ頃から今のようになったのか。一説には、当時は堅粕付近まで海が迫り、海岸端だったことから地禄の土を使って埋め立てて道を造り、家を建てたのだという。国道3号線が完成する前は、この地禄神社の横に道があり、これが太宰府へ行く堅粕街道だった。
 昭和30年から、夏祭りの際に子ども神輿(みこし)を始め、その際に危険という理由で姪浜石で造られた旧石鳥居を撤去した。

■堅粕の生い立ち
 堅粕という地名の由来にはいくつかの説があるが、貝原益軒の「筑前国続風土記」にある「潟洲」という地名から変化したという説が有力である。潟洲とは、海辺の低地で頻繁に大水が発生し水没する土地の事。その名の通り、近年も幾度となく水害に見舞われた。「筑前国続風土記」には、大きな村であるという記述があり、昔から栄えていたことが判る。同記には、東光院に湧いていたという温泉「薬師の湯」も記述されている。

■堅粕橋
 今から五百五十年前には、御笠川は堅粕橋の付近から曲折して、住吉を通り冷泉津(今の春住橋付近)へ流れていた。豊後の大友宗麟が博多を管領した際に、承天寺界隈にあったという小高い丘陵地を利用して流れを変え、石堂川とした。その際に、博多東部の入口にあたる堅粕付近に深い濠を堀り砦を築いたため、橋を造る必要が生じて堅粕橋を架けたのが橋の由来である。対岸の辻堂町(現在の博多駅一丁目)は太宰府往還の馬継所として、また荷駄賃所として発展したため、堅粕も賑わいをみせるようになる。

■馬番所
 現在の東光一丁目から東比恵一丁目にかけての御笠川沿いは、藩政時代は馬番所があり、太宰府往還から博多入りする人々を取り締まる要所であった。ここで身の回りのチェックを受けた後、堅粕橋を渡って博多入りした。
 当時一帯は博多外地の寂しい場所。約七百年前の南北朝時代、南朝方だった肥後の武将・菊池武時が手勢三百余騎を率いて九州探題(櫛田神社付近にあったとされる)の北条英時を攻略する際も太宰府往還を経て進軍し、このあたりを通っている。武時の探題攻めは、少弐・大友軍の裏切りによって武時以下全軍が櫛田神社付近で戦死。その首級二百余は、堅粕付近の比恵河原にさらされたという。
 この言い伝えに加え、藩政時代は柳町下(現・大浜地区)の刑場で打ち首になった罪人の首が、比恵の河原でその都度さらしものにされていたことから、気味の悪い場所でもあった。

■校区にあった銭湯六つ
 今では一件も残っていないが、昭和30年代には校区内に銭湯が5〜6件あった。堅粕四丁目の花見湯、東光二丁目の白鷺湯など、いずれも昭和40年代後半から50年代にかけて廃業していったという。また、駄菓子屋や貸し本屋なども数件あり、昭和の下町風情が残った時代だった。
 平成も18年になり、昭和時代の街角風景も次々になくなっている。昭和30年代の小学校の児童数は900人以上。現在は260人ほどだから、駄菓子屋や子ども相手の文具屋も次々に姿を消している。

■東光昔話と商業池
 昭和30年代、まだ百年橋通りや空港通りがなかった頃は、一面に田んぼや畑が広がっていた。福商(現在は東福岡高校)正門前の用水路も水がキレイで、ここでザリガニとりをした想い出のある大人も多い。津屋公園は以前は沼で、福岡商業のそばにあったことから商業池と呼ばれていたが、その後埋め立てられて公園となった。

東光おもしろマップづくり委員会(創立50周年記念事業)
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